このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第2章18節
『被観照者とは粗雑元素と感覚器官とから成り、認識、と行動と停滞の性質をもつが、経験と解脱を観照者に提供する目的を有している』
解説
ヨーガ・スートラ第2章18節では、「観られるもの」とは何か、その本質が説明されています。パタンジャリは、私たちが経験する世界や身体、心の働きは、三つの性質(グナ)によって成り立っていると説きます。この三つの性質とは、明るさや調和をもたらすサットヴァ、活動や変化をもたらすラジャス、重さや停滞をもたらすタマスです。
観られるもの、つまり自然界や心の働きは、この三つの性質が組み合わさることで形づくられています。その結果、私たちはさまざまな経験をします。喜びや苦しみ、安定や混乱、明晰さや鈍さといった状態も、これらの性質の働きによって生まれています。
またこの節では、観られるものの役割は「経験」と「解放」のためであるとも示されています。世界や心の働きは、意識がさまざまな体験を通して学び、やがて本来の自分を見極めるための場として存在している、という理解です。つまり、外界や内面の動きは、意識そのものを縛るためにあるのではなく、気づきを深めるための機会として与えられていると捉えられています。
第2章18節は、私たちが「自分」だと思っている心や身体、そして外の世界が、実は観る者である意識とは別の存在であり、常に変化し続ける自然の働きであることを示しています。この区別が明確になるほど、意識は変化するものに振り回されにくくなり、自由へと近づいていきます。
この節は、世界や心を否定するための教えではなく、それらの本質を正しく理解するための視点を与えています。観られるものの性質と役割を知ることが、観る者としての自分を見極めるための大切な土台になるのだと教えている節だといえるでしょう。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第2章18節では、私たちが体験しているこの世界や心の働きは、「観る者」である意識とは別のものであり、三つの性質(明るさ・活動・重さ)によって成り立っていると説かれています。そしてそれらは、ただ存在しているのではなく、「経験」と「気づき(解放)」のためにあると示されています。
現代の生活に例えるなら、私たちの毎日の出来事や感情の動きは、まるで学びのための環境のようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。忙しくて落ち着かない日もあれば、気分が晴れやかな日、なんとなくやる気が出ない日もあります。心の状態や周囲の状況は常に変わり続けていますが、それらは「自分そのもの」ではなく、「自分が体験しているもの」だという視点がここにあります。
たとえば、うまくいかない出来事が起こったとき、それに巻き込まれて「自分はダメだ」と感じてしまうことがあります。しかし、起きた出来事や湧いてきた感情は、あくまで経験の一部であって、それを見ている意識そのものではありません。経験は移り変わりますが、それを見ている存在は変わらず在り続けています。
第2章18節が伝えているのは、世界や心の動きを敵とみなすのではなく、それらを通して気づきを深めていくという見方です。日々の喜びも困難も、意識が自分自身を知るための機会として与えられている。そう捉えると、出来事に振り回されるだけでなく、そこから何かを学ぶ姿勢が生まれてきます。
この節は、「すべての経験には意味がある」という単純な励ましではなく、「経験は自分ではない」という見極めの視点を育てる教えです。心や世界の動きを客観的に観られるようになるほど、私たちは変化に振り回されにくくなり、本来の静けさに近づいていく。その土台を示しているのが第2章18節なのです。
