このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第2章23節
『観照者と被観照者との結びつきは観照者が自己の本性を悟ることと、観照・被観照、両者に宿る力を展開するためである』
解説
ヨーガ・スートラ第2章23節では、「観る者」と「観られるもの」との結びつきについて語られています。パタンジャリは、この結びつきが起こることで、意識は本来の自分を見失い、経験の世界の中に入り込むと説いています。
観る者である純粋な意識は、本来それ自体で完全であり、何ものにも縛られていません。しかし、心や身体、感覚、思考といった「観られるもの」と結びつくことで、意識はそれらを自分自身だと錯覚し、喜びや苦しみを経験するようになります。この結合によって、意識は本来の自由な状態を忘れ、変化するものに振り回される状態へと入っていきます。
この節が示しているのは、経験そのものが問題なのではなく、「本来別であるものを同一視すること」によって混乱が生じるということです。意識は観る存在であり、心や世界は観られる対象ですが、その区別が曖昧になることで、苦悩の連鎖が始まります。
第2章23節は、私たちが経験の中に生きている理由を説明すると同時に、そこから自由になるための鍵も示しています。それは、観る者と観られるものを正しく見極めることです。この見極めが深まるほど、意識は次第に本来の静けさを取り戻していきます。
この節は、人生の出来事を否定するのではなく、その仕組みを理解することの大切さを伝えています。経験の中にありながらも、それに飲み込まれない在り方へと進むための土台が、この教えの中に示されているのです。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第2章23節では、「観る者」と「観られるもの」が結びつくことで、私たちは経験の世界に入り込み、さまざまな喜びや苦しみを味わうようになると説かれています。本来は別のものである意識と心や身体を同一視することが、この結びつきの正体です。
現代の生活に置き換えるなら、「役割や状態を“自分そのもの”だと思ってしまうこと」が近いかもしれません。たとえば、仕事でうまくいっているときは「自分は価値がある」と感じ、失敗したときは「自分はダメだ」と強く落ち込むことがあります。このとき私たちは、出来事や評価という“観られるもの”と、自分自身を強く結びつけています。
また、感情にも同じことが起こります。悲しみや怒りが湧いたとき、それを「いま悲しみがある」と見るのではなく、「私は悲しい人間だ」「私は怒りっぽい人だ」と捉えてしまうと、感情が自分そのもののように感じられ、そこから抜け出しにくくなります。本来は心の中に現れている一時的な状態であるはずのものを、「自分そのもの」として抱え込んでしまうのです。
第2章23節が伝えているのは、人生の出来事や感情が悪いということではありません。それらは経験の場として自然に起こるものですが、問題になるのは「それと自分を同一視してしまうこと」です。観る者である自分と、観られている心や状況を区別できるようになると、同じ出来事の中でも心の揺れ方は変わっていきます。
この節は、経験の世界に生きながらも、その中に飲み込まれない在り方があることを示しています。自分は思考や感情そのものではなく、それらを経験している意識であると少しずつ理解が深まることで、苦悩の結びつきはゆるみ始める。その第一歩となる視点を教えてくれているのが、第2章23節なのです。
