このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第2章17節
『除去されるべき苦悩の原因は観照者と被観照者との結合である』
解説
ヨーガ・スートラ第2章17節では、避けることのできる苦の原因について語られています。前の節で示された「これから生じる苦」は、偶然に起こるものではなく、はっきりとした原因を持っていることが、この節で明らかにされます。
その原因とは、「観る者(意識)」と「観られるもの(心や身体、外界)」を取り違えてしまうことです。本来、意識は変わらずに在り続ける存在であるにもかかわらず、私たちは思考や感情、身体の状態、役割や評価といった変化するものを「自分自身」だと思い込んでしまいます。この誤った同一視が、苦を生み出す根本的な原因だとパタンジャリは説いています。
心の働きや感情は、刻々と変化します。喜びや悲しみ、安心や不安は生まれては消えていきますが、それらを経験している「観る存在」そのものは変化していません。しかし、変化するものと自分を重ねてしまうと、心の状態に振り回され、安定を失っていきます。この混同こそが、苦を生み続ける仕組みです。
第2章17節は、苦から自由になるためには、何かを新しく得る必要があるのではなく、「本来分けられているものを正しく見分けること」が重要だと示しています。観る者としての意識と、観られる対象としての心や身体を区別することで、苦の連鎖は自然とほどけていきます。
この節は、ヨーガの実践が外側の状況を変えることよりも、内側の理解を深める道であることを明確にしています。正しい見極めによって、避けることのできる苦は静かに消えていく。その根拠を示した節だといえるでしょう。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第2章17節では、避けることのできる苦の原因は、「観る者」と「観られるもの」を取り違えてしまうことにあると説かれています。つまり、本来は意識そのものとして在る自分が、心の状態や身体、役割、評価といった変化するものを「自分そのもの」だと思い込むことが、苦悩を生み出す原因だということです。
現代の生活に置き換えるなら、「自分の価値を、その時々の状態と重ねてしまうこと」がわかりやすい例かもしれません。たとえば、仕事がうまくいっているときは自分に自信が持てるのに、失敗した途端に「自分はダメだ」と感じてしまうことがあります。このとき私たちは、出来事や評価という“変化するもの”と、自分自身を強く結びつけています。
感情についても同じことが起こります。不安や落ち込みを感じたときに、「私は不安な人間だ」「私は弱い」と思ってしまうと、その感情が自分そのもののように感じられ、そこから抜け出しにくくなります。しかし実際には、不安や落ち込みは心の中に一時的に現れている反応であり、それを見ている意識そのものではありません。
第2章17節が示しているのは、「感情があること」や「出来事が起こること」自体が苦の原因なのではなく、それらと自分を同一視してしまう心の癖こそが、苦を長引かせているという視点です。観る者としての自分と、観られている心の動きを区別できるようになると、同じ状況にあっても必要以上に心を揺らさずに済むようになります。
この節は、外側の状況を完璧に整えなくても、内側の見方が変わるだけで、避けられる苦は確かに減っていくことを教えています。自分は思考や感情そのものではなく、それらを観ている存在である。その理解が深まるほど、人生の中で生まれる苦は静かにほどけていくのだと、第2章17節は伝えているように感じます。
