ヨーガ・スートラ第2章20節|観る者としての意識

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第2章20節

『観照者とは純粋なる意識そのものであり、純粋ではあるが、想念を介して観るが如きになっている』

解説

ヨーガ・スートラ第2章20節では、「観る者」とは何か、その本質が示されています。パタンジャリは、観る者は純粋な意識であり、それ自体は変化せず、ただ観る働きをもつ存在であると説いています。

観る者は、心の動きや感情、思考といった働きを経験しますが、それらと同一ではありません。心が揺れたり、考えが浮かんだり、感情が生まれたりしても、それらを認識している存在は常に変わらず在り続けています。この「観ている」という働きそのものが、観る者の本質です。

しかし観る者は、心を通して対象を経験するため、あたかも心の性質を自分のもののように感じてしまいます。心が悲しめば自分が悲しいと感じ、心が混乱すれば自分が混乱しているように思います。この重なりによって、観る者は観られるものと混同しやすくなります。

第2章20節は、観る者そのものは傷つかず、変化せず、ただ照らす存在であることを示しています。心の状態は移ろい続けますが、それを経験している意識の本質は変わりません。この区別がはっきりしてくると、私たちは心の動きに振り回されにくくなっていきます。

この節は、ヨーガが心をなくす道ではなく、「自分とは何か」を見極める道であることを明確にしています。観る者としての自分を理解することが、自由への重要な一歩になると教えている節だといえるでしょう。

現代視点での解釈

ヨーガ・スートラ第2章20節では、「観る者」とは何かが説明されています。観る者とは、純粋な意識そのものであり、思考や感情、身体の状態を経験してはいるけれど、それ自体は変化しない存在だと説かれています。

現代の感覚で考えるなら、「心の中で起きていることを知っている感覚」そのものが近いかもしれません。たとえば、怒りが湧いているときでも、「いま怒っているな」と気づいている部分があります。不安でいっぱいのときでも、「不安を感じている」とわかっている静かな視点があります。この“気づいている側”こそが、ここでいう観る者にあたります。

しかし私たちは、心の動きと自分を強く結びつけてしまいがちです。悲しい気持ちが続くと「私はダメだ」と思い込み、失敗すると「自分は価値がない」と感じてしまうことがあります。けれど実際には、悲しみや失敗は心の中に現れている状態であって、それを見ている意識そのものではありません。雲が空を覆っても、空そのものは消えていないのと同じように、感情が揺れても、観ている存在は変わらず在り続けています。

第2章20節が伝えているのは、私たちは思考や感情そのものではなく、それらを経験している意識であるという視点です。この区別が少しずつできるようになると、感情に飲み込まれにくくなり、同じ出来事の中でも落ち着きを保ちやすくなります。

この節は、「自分を変えなければならない」と焦る前に、「本当の自分は何か」を静かに見つめることの大切さを教えています。心の動きに巻き込まれそうなときほど、その背後で気づいている存在に立ち返ることが、ヨーガの智慧につながっていくのだと感じられます。

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