このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第2章25節
『無智がなくなれば、両者の結びつきもなくなる。これが捨て去ることであり、観照者の独存である』
解説
ヨーガ・スートラ第2章25節では、苦しみの根本原因である「無智」が消えたときに起こる変化について語られています。
これまでの節で説明されてきたように、私たちは本来「観る存在」であるにもかかわらず、体や感情、考えといった移り変わるものを「自分そのもの」だと思い込み、その結びつきによってさまざまな苦しみを経験しています。この思い違いの中心にあるのが無智です。
25節では、この無智が完全に取り除かれると、観る存在と観られるものとの誤った結びつきが終わり、本来の自由な状態があらわれると説かれています。それは何か特別なものを新しく手に入れるというよりも、もともとあった本質がはっきりと認識される状態です。
心の動きや外の出来事に振り回されていた状態から離れ、変化するものにとらわれない自分自身の在り方に落ち着くこと。これがこの節で示される「解放」です。
ヨーガは、何かを付け足して理想の自分になる道というより、思い込みや誤解を少しずつ手放し、本来の静かで自由な自分に戻っていく道であることを、この節は伝えています。
現代視点での解釈
第2章25節は、「無智がなくなったときに、本来の自由があらわれる」ということを伝えている教えです。
私たちはふだん、自分の肩書きや立場、周りからの評価、うまくいっているかどうかといった外側の条件を「自分そのもの」だと思い込みがちです。でも、それらはすべて変わっていくもので、本当の自分のすべてではありません。この思い込みこそが、ヨーガでいう無智です。
現代の生活にたとえるなら、スマホの画面に映っている通知やニュース、SNSの反応に気持ちが振り回されている状態に少し似ています。画面に映る情報に夢中になりすぎると、今ここにいる自分や、落ち着いた感覚を忘れてしまいますよね。本当はスマホを「見ている側」であるのに、いつの間にか中の情報に引き込まれてしまうような感覚です。
無智が薄れていくというのは、そのことに気づき、「あ、私は振り回されていたんだ」と一歩引いて見られるようになることに近いかもしれません。画面の中身と、自分自身とを分けて感じられるようになると、必要以上に落ち込んだり、焦ったりしにくくなります。
この節が示している解放とは、どこか特別な世界に行くことではなく、思い込みから少しずつ自由になり、「変わるもの」と「変わらずに見ている自分」を見分けられるようになること。そのとき、心は自然と軽くなり、本来の落ち着きが戻ってくるのだと教えています。
