ヨーガ・スートラ第2章26節|見極めの智慧という道

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第2章26節

『不断の弁別智が捨て去るための手段である』

解説

ヨーガ・スートラ第2章26節では、無智を取り除き、本来の自分を見極めていくための方法が示されています。パタンジャリは、その道は「揺るぎない見極めの智慧(識別の智慧)」であると説いています。

ここでいう智慧とは、単なる知識の量ではなく、「観る者」と「観られるもの」をはっきりと見分け続ける力のことです。身体や感情、思考、外界の出来事はすべて変化し続けるものであり、自分の本質そのものではないという理解を、繰り返し深めていくことが求められています。

この見極めは一度の気づきで完成するものではなく、継続的な気づきの積み重ねによって確かなものになっていきます。心が揺れたとき、感情に飲み込まれそうなとき、「これは観られているものであって、観ている自分そのものではない」と思い出す。その繰り返しが、無智を少しずつ薄めていく道だとされています。

第2章26節は、解放が偶然に訪れるものではなく、明確な方向性をもった実践の積み重ねによって育まれることを示しています。見極めの智慧が安定すると、観る者は観られるものに振り回されにくくなり、本来の静けさにとどまりやすくなっていきます。

この節は、ヨーガの道が特別な体験を追い求めることではなく、日々の中で見誤りを正し続ける地道な智慧の実践であることを、静かに教えているのです。

現代視点での解釈

第2章26節が伝えている「見極めの智慧」を、現代の生活にたとえるなら、スマホの通知との付き合い方に少し似ています。

私たちは通知が鳴るたびに、つい反射的に画面を開いてしまいます。うれしいメッセージもあれば、気が重くなる連絡もあり、そのたびに気分が上下します。でも本来、通知はただの情報であって、私たちそのものではありません。

ヨーガが教える見極めの智慧とは、まさにこの「通知と自分を分けて見る感覚」に近いものです。怒りや不安、落ち込みといった感情が湧いても、「いま怒りが出てきているな」「不安を感じているな」と一歩引いて気づくこと。それは、感情に巻き込まれている状態から、「気づいている自分」に戻ることでもあります。

最初はすぐに反応してしまっても、「あ、また飲み込まれていたな」と気づいて戻る。その繰り返しが、見極めの練習です。通知をオフにするのではなく、通知に振り回されすぎない使い方を覚えていくようなイメージです。

この節が伝えているのは、特別な体験をすることではなく、「これは自分そのものではない」と見分ける力を育て続けること。その積み重ねによって、心は少しずつ落ち着き、本来の静かな自分に戻りやすくなっていくのです。

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