心の動きがほとんど止まり、深い静寂に包まれた”無想三昧”(アサンプラッニャータ・サマーディ)について説かれています。
ここは、前の段階である”有想三昧”での分析や観察を十分に繰り返した後に訪れる、思考がほとんど働かない瞑想の境地です。
この状態では、心の中に生じる想像や判断、記憶の働きが静まり、波ひとつない湖のような深い静寂が続いています。
眠りのように思えるかもしれませんが、意識ははっきりとあり、完全に目覚めた静けさが保たれている点が大きく異なります。
しかし、思考が止まっていても、心にはまだ「潜在的な記憶(サンスカーラ)」がかすかに残っています。
過去に刻まれた経験の種のようなものが、深層で静かに存在している状態です。
パタンジャリさんは、この深い瞑想の境地に達しやすい人として「肉体を超えた存在のように心が軽い者」と「自然の根源へ溶け込むほど心が静まっている者」を挙げています。
しかし、どちらもまだわずかな潜在印象が残っているため、完全な解脱には達しておらず、輪廻転生の流れは続くと説明しています。
つまり、有想三昧で徹底的に自分自身と心の仕組みを分析し、その働きをひとつずつ手放した後に起こるのが、この無想三昧です。
分析が終わり、思考がほぼ止まっていても、心の奥の奥にはまだわずかな記憶の痕跡が残っている。それが心というものの微細さであり、人が静けさへ向かっていくプロセスでもあるのだとヨーガは教えています。
深い瞑想とは、頭が空っぽになるというよりも、意識がクリアなまま雑念が自然に消えていくような状態。
考えようとしていないのに、ただ静かで満ち足りている。そんな純度の高い静けさがの境地です。
現代的なたとえで言うと
とても集中して作業に没頭しているとき、
「考えている」という感覚はないのに、意識はクリアで静かで、目の前の世界がシーンと冴え渡るような瞬間があります。
ここで言う無想三昧は、その状態をさらに深く、静かに、純度高くしたものと考えるとイメージしやすいかもしれません。
