このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章19節
『肉体離脱者達と根本自性に固着した者達には、輪廻転生の原因となる無想三昧がある』
解説
心の動きがほとんど止まり、深い静寂に包まれた”無想三昧”(アサンプラッニャータ・サマーディ)について説かれています。
ここは、前の段階である”有想三昧”での分析や観察を十分に繰り返した後に訪れる、思考がほとんど働かない瞑想の境地です。
この状態では、心の中に生じる想像や判断、記憶の働きが静まり、波ひとつない湖のような深い静寂が続いています。
眠りのように思えるかもしれませんが、意識ははっきりとあり、完全に目覚めた静けさが保たれている点が大きく異なります。
しかし、思考が止まっていても、心にはまだ「潜在的な記憶(サンスカーラ)」がかすかに残っています。
過去に刻まれた経験の種のようなものが、深層で静かに存在している状態です。
パタンジャリさんは、この深い瞑想の境地に達しやすい人として「肉体を超えた存在のように心が軽い者」と「自然の根源へ溶け込むほど心が静まっている者」を挙げています。
しかし、どちらもまだわずかな潜在印象が残っているため、完全な解脱には達しておらず、輪廻転生の流れは続くと説明しています。
つまり、有想三昧で徹底的に自分自身と心の仕組みを分析し、その働きをひとつずつ手放した後に起こるのが、この無想三昧です。
分析が終わり、思考がほぼ止まっていても、心の奥の奥にはまだわずかな記憶の痕跡が残っている。それが心というものの微細さであり、人が静けさへ向かっていくプロセスでもあるのだとヨーガは教えています。
深い瞑想とは、頭が空っぽになるというよりも、意識がクリアなまま雑念が自然に消えていくような状態。
考えようとしていないのに、ただ静かで満ち足りている。そんな純度の高い静けさがの境地です。
現代的なたとえで言うと
とても集中して作業に没頭しているとき、
「考えている」という感覚はないのに、意識はクリアで静かで、目の前の世界がシーンと冴え渡るような瞬間があります。
ここで言う無想三昧は、その状態をさらに深く、静かに、純度高くしたものと考えるとイメージしやすいかもしれません。
現代視点での解釈
第19節では、無想三昧(深い静けさの状態)に至っているように見えても、それが「生まれつき」や「状態的な要因」による場合があることが示されています。
つまり、心が静まっているように見えても、必ずしも智慧による到達とは限らないという指摘です。
現代的に例えるなら、
極度に疲れて何も考えられなくなっている状態が近いかもしれません。
仕事や人間関係で消耗しきったとき、
「もう何も考えられない」「感情も動かない」
という状態になることがあります。
外から見ると静かで落ち着いているようですが、
実際には気づきや理解が深まっているわけではなく、ただ停止している状態です。
また、強い環境や状況の変化によって、
一時的に心が空白のようになることもあります。
けれどその静けさは、環境が変わればすぐに崩れ、
根本的な心の自由や理解にはつながりません。
第19節が伝えているのは、
静かさそのものがゴールではないということです。
意識が静まっていても、
「なぜ静まっているのか」
「何に基づいているのか」
が大切だとされています。
ヨーガでは、
智慧と理解を伴って心が静まっていくことを重視します。
そうでなければ、その静けさは一時的で、
再び以前の思考や反応に引き戻されてしまうからです。
