このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章40節
『内的心理器官の働きを不動にしたヨーガ行者は、極小のものから極大のものまでを支配する』
解説
ヨーガ・スートラ第1章40節では、よく鍛えられた心の状態について語られています。
パタンジャリは、修練を重ねた心は「最も小さなものから、最も大きなものに至るまで、どのような対象にも集中できるようになる」と説きます。
ここで言われているのは、特別な超能力のような話ではなく、「心が十分に整えられたときのあり方」です。まだ心が散らかっている段階では、集中しようとしてもすぐに別のことを考えてしまったり、不安や欲望に引っ張られてしまいます。一方、ヨーガの実践を続け、心が静かにまとまってくると、自分が向けようと決めた対象に、揺れずにとどまり続けることができるようになります。
対象がどれだけ微細でも、どれだけ広がりのあるものでも関係なく、必要なところにスッと心を向け、そのまま安定していられる。そんな心の状態では、もはや心に振り回されるのではなく、「心を道具として、必要なときに、必要な方向へと使う」ことができるようになります。
第40節は、サマーディ(深い集中・瞑想)の入り口ともいえる段階を示している節です。
心を押さえつけるのではなく、丁寧に訓練し、少しずつ静けさと集中を育てていった先に、「心が自由に使えるようになる」というヨーガのゴールの一つがあるのだと教えてくれています。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章40節は、「心を訓練すると、どんな対象にも自由に集中できるようになる」と説いています。
現代でいえば、細かい事務作業や確認作業に落ち着いて集中できる心も、人生の方向性や生き方のような大きなテーマを冷静に見渡せる心も、どちらも同じ“整った心”の働きだということです。
心が散らかっていると、すぐに不安やスマホ、他人の目に意識が飛んでいきますが、ヨーガの練習を続けていくと、「今、向き合うべきこと」に静かにとどまる力が育っていきます。
第40節は、ヨーガとは、感情や思考に振り回される心から一歩ずつ離れ、「必要なときに、必要な方向へ、心を上手に使える自分」へと育っていく道なのだと教えてくれているように感じます。
