このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章43節
『記憶が浄化され、あたかも意識がその本性をなくしてしまったかの如くとなり、客体だけが輝いているのが無尋三昧である』
解説
ヨーガ・スートラ第1章43節では、さらに一歩深まった瞑想の状態について語られています。ここでは、対象に集中しているときに残っていた「言葉」「意味づけ」「イメージ」までもが静まり、ただ対象そのものだけが、澄んだ鏡のように心に映っている状態が説明されています。
先の段階では、「見る自分」と「見ている対象」、そしてそれに伴う解釈がまだわずかに存在していました。しかし、この段階では、余計な説明や記憶が完全に静まり、心そのものが透明になっていきます。パタンジャリは、この状態を「磨かれた水晶」にたとえます。水晶が置かれたものの色をそのまま映すように、心が対象と一体となり、混じり気なく、あるがままを映し出すのです。
ここで重要なのは、「無理に何も考えないようにする」という抑圧ではないということです。むしろ、集中が深まり、執着や緊張が自然にほどけた結果として、思考や評価が静かに消えていく。そのとき、心は自分自身を主張することなく、ただ対象とともに在る静寂へと入っていきます。
この段階は、心の雑音が少しずつ取り除かれ、私たちの内側に本来備わっている明晰さや静けさが表れてくるプロセスだと言えるでしょう。考えを止めることを目的にするのではなく、丁寧に意識を育てていく中で、結果として心が澄みわたり、自然に静まりゆく。その歩みこそが、ヨーガが示す瞑想の道なのだと感じます。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章43節では、心がとても深く静まり、対象そのものだけがクリアに残る瞑想の状態について語られています。言葉や解釈がほとんど消え、心がまるで透明になっていく段階です。
これを日常にたとえるなら、たとえば、静かな湖を眺めているとき。
最初は、「きれいだな」「写真撮ろうかな」「観光地だから混むかも」など、いろいろな考えが浮かびます。
でも、しばらくただ見ていると、言葉が少なくなり、
「波」「光」「静けさ」そのものだけが感じられてくる瞬間があります。
説明しようとしていた心が退き、
ただ“見ている”だけの感覚がはっきりしてくる — そのイメージが近いかもしれません。
また、好きな音楽を聴いているときも似ています。
最初は、
「この歌手好き」「ここのメロディいい」など評価が浮かびますが、
ふと気づくと、
言葉では説明しにくい“音そのもの”にただ浸っている瞬間があります。
頭で理解するのではなく、
体と心全体で感じている — そんな状態です。
第43節が伝えているのは、
「考えないように必死になること」でも
「無理やり真っ白になろうとすること」でもありません。
集中を丁寧に続けていく中で、
・余計な意味づけがほどけ
・評価や比較が静まり
・対象そのものが、あるがままに感じられる
その自然なプロセスを示しています。
心が磨かれたガラスや水晶のようになり、
“自分の色”をのせることなく、ただそのままを映す
その体験が少しずつ育っていくことが、
ヨーガの瞑想が深まるサインなのだと感じます。
