このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章44節
『前二条の記述に則って、それよりも精妙な対象に関する有伺と無伺の三昧までは説明される』
解説
ヨーガ・スートラ第1章44節では、瞑想がさらに微細な領域へと深まっていく段階について説かれています。前の節で示された「対象そのものだけが澄んで残る状態」から、心はさらに細かいレベルへと向かい、より繊細で、形のない領域へと集中が進んでいきます。
ここでは、粗い対象(形や感覚としてとらえやすいもの)だけでなく、微細な対象(より抽象的で、感覚では捉えにくいもの)にも、同じようにサマーディが広がっていくと語られています。心は、外の世界の対象だけでなく、内側の感覚、思考、概念へと注意を向け、その一つひとつにおいて静けさと明晰さを保つ練習を続けていきます。
パタンジャリは、瞑想の対象がどれほど微細になっても、同じ原理が働くと言います。つまり、「集中する → 静まる → 本質が明らかになる」というサイクルは変わらないということです。対象が変化しても、心が澄んでいれば、そこにある秩序や真理が自然と見えてくるのです。
第44節は、ヨーガの瞑想が単なるリラックスや思考停止ではなく、「より深い理解へ向かうプロセス」であることを示しています。粗いレベルから微細なレベルへと静けさが広がり、心がより精妙に、より透明に整えられていく。そうして少しずつ、私たちは自分自身の内側の奥行きへと、静かに入っていくのだと伝えている節だといえるでしょう。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章44節では、瞑想がより繊細で深いところへと進んでいく様子が語られています。前の節で、対象そのものだけが静かに心に残る段階が示されましたが、ここではさらに一歩進み、より微細で形のない領域へと意識が向かっていきます。
これを日常にたとえるなら
最初は、外側のわかりやすいところから集中が始まります。
たとえば、
「姿勢」
「呼吸の動き」
「体の感覚」
といった、はっきり感じられるもの。
けれど、集中を続けているうちに、次第に内側の静かな感覚へと意識が向かいはじめます。
「緊張がほどけていく感じ」
「心が少し落ち着いていく流れ」
「言葉にならない“静けさ”そのもの」
こうした微細な感覚は、触れることも計測することもできませんが、確かに体験としてそこにあります。
第44節が伝えているのは、
・大きくて分かりやすいものから
・だんだんと細かく、静かなものへ
意識の焦点が移りながらも、
同じ「集中と静けさ」の流れが続いていく、ということです。
ヨーガの瞑想は、いきなり深いところへ飛び込むのではなく、
見えるもの → 感じるもの → さらに奥の静けさ
というように、段階的に進んでいきます。
そして、そのプロセスを通して、
「自分の内側には、まだ知らない層がたくさんある」
ということに、少しずつ気づいていくのです。
第44節は、そうした内側の旅が静かに続いていく様子を、丁寧に教えてくれているように思います。
