ヨーガ・スートラ第1章46節|“種”のあるサマーディ(有種三昧)

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第1章46節

『以上が有種子三昧である』

解説

ヨーガ・スートラ第1章46節では、これまで語られてきた「さまざまな種類のサマーディ(三昧)」について、その全体をまとめるように説明しています。ここでパタンジャリは、対象を伴うあらゆる三昧は、同じ枠組みの中に含まれると示しています。

これまでの流れの中で、

・言葉や意味づけが残る段階
・解釈が静まり、対象だけが澄んで残る段階
・より粗いものから微細なものへ進んでいく段階

といった、多様な瞑想の状態が紹介されてきました。第46節は、それらが別々の種類の体験ではなく、「対象を持つサマーディ」という同じカテゴリーに含まれているのだと整理しているのです。

つまり、どの段階であっても、

対象に心を向け、
そこに集中し、
心が静まり、
明晰さが深まっていく。

この基本的な構造は共通しています。違うのは、どのレベルの対象に向き合っているか、そしてどれほど微細な領域まで入っているか——その深さだけです。

この節は、瞑想の道が「段階的である」ということを、とても落ち着いて教えてくれます。途中で体験する静けさや集中は、それぞれが独立したゴールではなく、ひとつながりのプロセス。どれも大切な学びであり、そこから次の静けさへと、自然に進んでいくものなのです。

第46節は、これまで学んできた瞑想の段階を整理しながら、

「焦らずに、この流れ全体を理解して歩みなさい」

と伝えてくれているように感じる節です。

現代視点での解釈

ヨーガ・スートラ第1章46節では、ここまで説明されてきた、いろいろな種類のサマーディ(三昧)を一度整理しながら、「どれも同じ流れの中にあるものだ」と伝えています。

少し日常にたとえてみます。

たとえば、何かを学ぶとき。

最初は、
・全体像がよく分からない
・説明の言葉に頼る
・覚えようとして頭がいっぱい

という段階から始まります。

続けていくうちに、

・少し理解できる部分が増えて
・余計な情報が静かになり
・「あ、そういうことか」と腑に落ちる

という感覚が生まれてきます。

さらに経験が積み重なると、

・いちいち考えなくても
・自然と体が覚えていて
・流れるようにできる

という境地に近づいていきます。

ヨーガのサマーディも、これに少し似ています。

言葉を使って理解する段階から始まり、
少しずつ解釈が静まり、
やがて対象そのものと静かにつながる段階へ。

第46節が伝えているのは、

「違う種類の体験に見えても、実は一本の道の上にある」

ということ。

・浅いからダメ
・深くないと意味がない

という話ではなく、

今いる場所もプロセスの一部であり、
そこから先に、自然につながっていく道がある、という視点です。

ヨーガの瞑想は、
段階を飛び越えたり、
特別な体験だけを追い求めたりするものではなく、

今ここで体験している静けさを
丁寧に味わい、重ねていく練習。

第46節は、その流れをやさしく整理しながら、

「あわてず、順番に、育てていきましょう」

と伝えてくれているように感じます。

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