このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章47節
『無伺三昧が最も純粋なものになると自己の内において篤信が生ずる』
解説
ヨーガ・スートラ第1章47節では、サマーディ(三昧)が安定してきたときに、心にどのような変化が起こるのかが語られています。ここでパタンジャリは、対象を伴うサマーディが純粋で揺らぎのないものになったとき、心は「澄みきった明晰さ」と「静かな喜び」に満たされると説きます。
サマーディが深まるほど、心は自分の癖や欲望、恐れによって曇らされなくなっていきます。対象を正しく、そのままに見ることができるようになり、そこに混ざりもののない理解が生まれます。これは理屈で組み立てた知識ではなく、直接的な体験から湧き上がる“確かな理解”です。
そのとき、心は無理に抑え込まれるのではなく、自然に落ち着き、安らぎを感じはじめます。外側の刺激や評価によって揺れ動くのではなく、内側から湧く静けさが土台となるため、穏やかな喜びが長く続きます。パタンジャリは、この清らかな明晰さを「アディヤートマ・プラサーダ」と表現し、精神が浄らかに澄み渡る状態として示します。
第47節は、ヨーガの瞑想がめざすのは「特別な神秘体験」ではなく、心そのものが静かに整い、軽やかに澄んでくるプロセスであることを教えてくれます。サマーディが安定するとき、私たちは外に探し求めていた安心や光を、実は自分の内側に見いだせるようになっていく。その道のりを静かに示している節だといえるでしょう。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章47節では、サマーディ(三昧:深い集中と静けさ)が少しずつ安定してきたとき、心がどんな状態になっていくのかが語られています。ポイントは、「がんばって無理に静かにする」のではなく、自然に澄みわたっていく、というところです。
日常でたとえるなら、
ずっと濁っていた水をかき混ぜるのをやめたとき、
時間が経つにつれて、ゆっくりと澄んでいくイメージ。
はじめは、雑念や不安、評価、心配ごとがたくさん浮かびますが、
呼吸や瞑想、集中の練習を続けていると、少しずつ、
「今は心配しなくていいこと」
「手放して大丈夫なこと」
が見極められるようになってきます。
すると、無理やりポジティブになろうとしなくても、
心が軽く、静かに明るくなっていく瞬間が生まれます。
また、何か大事な決断をするとき。
・焦りや不安の中で考えると、余計に混乱する
・でも、少し時間を置き、落ち着いて眺めると
「あ、こうすればいいかもしれない」と自然に見えてくる
そんな経験に近いかもしれません。
第47節が伝えているのは、
「瞑想がうまくいくとスゴい体験をする」
というよりも、
「心が澄み、落ち着き、ものごとがシンプルに見えてくる」
という、とても現実的な変化です。
外の状況が劇的に変わるわけではなくても、
心が静かで明晰だと、
・過剰に心配しない
・必要以上に落ち込まない
・大切なことを見失わない
そんな“内側の余裕”が少しずつ育っていきます。
ヨーガがめざすのは、
何か特別な世界へ飛び込むことではなく、
日常の中で、心が静かに整い、
自分らしさに戻っていくプロセス。
第47節は、その途中で感じる「澄んだ安心感」について
教えてくれている節だと感じます。
