ヨーガ・スートラ第1章48節|真理そのものを映す確かな知

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第1章48節

『この自己の内なる篤信の中に、真理を保持する真智が在る』

解説

第48節では、サマーディ(深い集中と静けさ)がさらに安定していったときに生まれる「智慧」について説明されています。

ここで語られている智慧は、知識として“学ぶ”ものではなく、

外から与えられる説明でもありません。

静まった心そのものから、自然に立ち上がってくる理解――

それが、この節でいう「真実を直観する智慧(リトンブハラ・プラジュニャー)」です。

この智慧は、

・経験や記憶の影響

・好き嫌い、思い込み

・誰かの意見や価値観

といったフィルターを通さず、

「ものごとが、そのままの姿で見える」

という状態だといわれます。

それは、「感情を押し殺す」ということではなく、

心が静まることで、感情に振り回されずに本質を見られる、という意味です。

たとえば、

・不安だからこう考える

・怒っているからこう見える

・得をしたいからこう判断する

といった心のクセが弱まり、

ただ淡々と「事実」と「真実」が浮かび上がるような感覚です。

この段階に至るまでには、

アビヤーサ(継続した練習)

ヴァイラーギャ(見極め・手放し)

集中と静寂の深まり

といった土台が積み重なっています。

その積み重ねの上で初めて、

「頭で理解する」のではなく

「心の奥で、そのまま理解されている」

という状態が訪れる、とパタンジャリは説いています。

第48節は、

ヨーガの道は、単なるリラクゼーションや集中の練習ではなく、

心の一番深い部分で“真実を見る力”を育てていく道である

ということを、静かに示してくれる節でもあります。

現代視点での解釈

第48節では、心が深く静まり、サマーディ(深い集中)が安定していくとき、

「ものごとをありのままに見抜く智慧」が生まれる、と説かれています。

ここでいう智慧は、

本や先生から“教わる知識”ではありません。

静まった心そのものが、

自然に真実を映し出す。そんな感覚に近いものです。

日常生活でたとえるなら…

たとえば、強い感情に揺れているとき。

焦っているときは、

「早く決めなきゃ」「どうしよう」と、視野が狭くなります。

怒っているときは、

「相手が悪い」と決めつけてしまいます。

疲れているときは、

「もう無理」と極端に感じてしまいます。

でも、一晩眠ったり、少し落ち着いて振り返ると、

「あ、私ちょっと焦りすぎてた」

「相手を誤解していたかもしれない」

と、まったく違う見え方をすることがありますよね。

第48節が伝えているのは、

その「落ち着いた見え方」が、

もっと静かで、もっと深いレベルで起こる

ということです。

感情や思い込みに振り回されず、

・何が事実で

・何が自分のクセや解釈なのか

が、静かに分かってくる状態。

それが、ヨーガでいう “直観的な智慧” です。

ここで大事なのは

それは「特別な才能」でもなく、

スピリチュアルな不思議体験でもなく、

呼吸や瞑想、観察を続けていく中で、

少しずつ、自然に育っていく力。

がんばってひねり出すものではなく、

“静けさの中から浮かび上がる理解”。

第48節は、

ヨーガはポーズだけの練習ではなく、

心の深い場所で「見方そのもの」を整える学び

であることを教えてくれています。

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