このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章51節
『この残存印象をも止滅させると、全ての心理作用が止滅するので、無種子三昧に達する』
解説
ヨーガ・スートラ第1章51節では、サマーディの最終段階ともいえる境地について語られています。前の節で説明された、サマーディから生じる智慧さえも静まり、その働きが完全に止滅した状態がここで示されています。
この段階では、これまで心に残っていたあらゆる印象や潜在的な働き(サンスカーラ)も静まり、心はもはや何かを対象として動くことがありません。対象を観る心も、理解しようとする智慧もなく、ただ純粋な静けさだけが保たれています。
パタンジャリはこの境地を、「種のないサマーディ(無種三昧)」と表現します。これまでの瞑想では、微細であっても何らかの“種”となる働きが心に残っていましたが、ここではそれさえも消え去り、新たな心の動きが生じる原因が存在しないとされています。
これは、何かを得ようとする体験ではなく、何かを失ってしまう状態でもありません。心の働きが完全に静まったときに、本来の意識だけが明らかになる状態だと説かれています。
第51節は、ヨーガが目指す最終的な静寂とは、努力や理解の先に「何も加えない状態」があることを示しています。すべての心の働きが止滅したとき、意識は最も純粋なかたちで現れる——パタンジャリはそのことを、この節で簡潔に伝えているのだと思います。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章51節では、心の働きが完全に静まりきった最終的な境地について語られています。前の段階では、サマーディから生まれた智慧が心を整えていきましたが、この節では、その智慧さえも役目を終え、心に残る“種”がすべて消えた状態が示されています。
現代の感覚でたとえるなら、何かを考えて答えを出そうとしている状態でも、気づきを得て「わかった」と感じている状態でもありません。そうした理解や納得すら必要なくなり、ただ静かで澄んだ意識だけが残っている状態です。
たとえば、長い一日が終わり、やるべきことも考えることもすべて終えたあと、理由もなく深く安らいでいる瞬間があります。何かを達成した満足感とも違い、何も判断せず、何も求めていないのに、ただ静かで満ちている感覚。その感覚にとても近いものだといえます。
ここでは「集中している私」「理解している私」「瞑想している私」といった意識すら前面に出てきません。何かをしようとする心の動きが完全に止まり、それでも意識そのものは失われていない。むしろ、もっとも純粋なかたちで在り続けている状態です。
第51節が示しているのは、ヨーガの最終地点は「何かを得ること」ではなく、「余計なものが一切なくなった状態」であるということです。努力や瞑想の積み重ねの先に、自然と訪れるこの静寂は、特別な体験というよりも、本来の意識がそのまま現れた姿なのだと伝えられています。
