ヨーガ・スートラ第2章5節|真実を見誤る心のはたらき

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第2章5節

『無智とは、有限、不浄、苦、非我のものを無限、浄、楽、真我であると思うことである』

解説

ヨーガ・スートラ第2章5節では、前の節で示された「無智(アヴィディヤー)」とは、具体的にどのような状態なのかが説明されています。パタンジャリは、無智とは永遠でないものを永遠だと思い、清らかでないものを清らかだと思い、苦を楽だと捉え、本来の自己ではないものを自己だと錯覚することだと説いています。

つまり、移ろい変わるものを変わらないものだと信じたり、一時的な快や満足を本当の幸福だと勘違いしたりする心の働きが、無智の正体だということです。身体や感情、思考といった常に変化し続けるものを「これが私だ」と思い込むことも、この無智に含まれます。

この見誤りがあるかぎり、私たちは失うことを恐れ、守ろうとし、思い通りにならない現実に苦しみます。変わるものに安定を求め、そこに自分の拠り所を置いてしまうからです。無智は特別な人だけに起こるものではなく、日常の中で無意識のうちに誰もが抱えている心の傾向だとされています。

第2章5節は、苦悩の原因が外側の出来事そのものではなく、「どのように物事を見ているか」にあることをはっきりと示しています。ヨーガの実践とは、この無智に少しずつ気づき、物事をより正確に、より静かな視点から見直していく過程です。無智が和らぐことで、心は外に振り回されにくくなり、本来の落ち着きと自由に近づいていく。その土台を示しているのが、この節だといえるでしょう。

現代視点での解釈

ヨーガ・スートラ第2章5節では、「無智(アヴィディヤー)」とは何かが具体的に説明されています。無智とは、物事を正しく知らないというよりも、見え方を取り違えてしまっている状態のことです。変わり続けるものを変わらないと思い込み、一時的な快を本当の幸せだと信じ、苦の原因となるものを楽だと錯覚し、さらには本来の自分ではないものを「自分そのもの」だと思い込んでしまう――そのような心の働きが無智だと説かれています。

現代の生活に置き換えてみると、たとえば仕事の評価や人からの反応に強く左右されてしまうときがあります。調子が良いときは「これが本当の自分だ」と感じ、うまくいかないと「自分には価値がない」と落ち込んでしまう。評価や状況は常に変わっているにもかかわらず、それを自分の本質と重ねて受け取ってしまうところに、無智が表れています。

また、忙しさや刺激の多い毎日の中で、「これさえ手に入れば満たされる」「これがあれば安心できる」と思って何かを追い求めることもあります。しかし、手に入れた瞬間は満たされたように感じても、しばらくするとまた別の不安や不足感が顔を出します。一時的な快を、長く続く幸せだと勘違いしてしまうことも、無智の一つの形です。

第2章5節が伝えているのは、こうした苦しさの原因は外側の出来事そのものではなく、「どのように見ているか」「何を自分と重ねているか」にあるということです。ヨーガの実践は、現実を否定したり、欲や感情を無理に消そうとすることではありません。見誤りに気づき、距離を取りながら物事を眺められるようになることで、心の反応は自然と穏やかになっていきます。

無智が少しずつほどけていくと、変わるものに振り回されにくくなり、変わらない静かな軸のようなものに気づいていく。その入口を示しているのが、第2章5節だといえるでしょう。

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