ヨーガ・スートラ第1章17節|対象を伴う三昧の段階

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第1章1節

『有想三昧は尋、伺、歓喜、、我想の意識を伴っている』

解説

有想(サンプラジュナータ)三昧は尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、歓喜(アーナンダ)、
我想(アスミタ)の意識を伴っていると説かれています。
ヨーガ・スートラでは、瞑想が深まっていくと「サマーディ」という心の統一状態に近づくと説かれています。ここでは、その中でもまだ意識や理解を伴っている段階である「サンプラジュナータ・サマーディ(有想三昧)」について説明されています。

この有想三昧には、ヴィタルカ、ヴィチャーラ、アーナンダ、アスミタという4つの意識のプロセスがあるとされます。これは、身体・感覚・心の働きと“自分自身”を丁寧に見分け、自分の本質へ近づいていくための順序でもあります。

最初の段階であるヴィタルカでは、呼吸や身体感覚、マントラなど、形のある対象に意識を集中させます。意識はまだ働いていますが、散らばることなく対象にまとまって向いている状態です。

そこから少し心が静まり、より抽象的で微細な対象へ意識が向かうのがヴィチャーラです。空間そのものや「今ここに存在している」感覚など、形のない対象に意識が向き、思考がより静かに穏やかに働いている状態です。

さらに瞑想が深まると、理由はわからないけれど内側から自然に喜びや安らぎが湧いてくるアーナンダの段階に入ります。外側の出来事ではなく、内側から静かにあふれてくる満たされた感覚です。

そして最後に訪れるのがアスミタです。「私は身体でも思考でも役割でもない」という純粋な“存在そのもの”の感覚が明確にあり、「私はある」という静かな意識だけが残る状態です。

この4つのプロセスを通して、ヨーガでは自分の本質を分析しながら見極めていく「サンプラッニャータ(はっきりした理解)」が生まれるとされています。瞑想とはただ座って目を閉じる時間ではなく、“自分を知る旅”そのものだと感じられるのは、このような過程を丁寧に積み重ねていくからなのかもしれません。

焦らず今の自分が向き合えるところから一歩ずつ深めていくことで、心は少しずつ透明に、揺れが少なくなり、静けさへと近づいていくのだと思います。

現代視点での解釈

第17節では、瞑想が深まっていくときに現れる「対象を伴った集中の状態」が説明されています。
ここでは、意識が完全に空白になるのではなく、何かをはっきりと観ながら、深く集中している状態が段階的に示されます。

現代的に例えるなら、難しい本を読んでいるときの感覚が近いかもしれません。
最初は文章を一語ずつ追い(理解しようと考えながら読む)、
次第に内容が自然に頭に入ってきて、
やがて「読んでいる」という意識よりも、理解そのものに没入している状態になります。
このとき、周囲の音や時間の感覚が薄れ、集中は保たれていますが、意識はとても明晰です。

第17節が示すプロセスもこれに似ています。
最初は対象を「考えながら」観ている段階があり、
次に対象を「静かに味わう」ような段階へ移り、
その集中の中で、理由のない充足感や安定感が生まれ、
最後には「集中している私」という感覚だけが残ります。

大切なのは、これは特別な体験を追い求める話ではなという点です。
第17節が伝えているのは、
集中が深まるにつれて、思考は少なくなり、
意識はより静かで澄んだ状態へと自然に移行していく、という心のプロセスです。

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