ヨーガ・スートラ第2章4節|無智というすべての苦悩の根

この記事の内容について

このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。

ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。

ヨーガ・スートラ第2章4節

『無智とは、その他の煩悩の本源であり、睡眠、衰弱、中断、高揚かいずれの状態にある』

解説

ヨーガ・スートラ第2章4節では、前の節で挙げられた五つの苦悩の中でも、無智(アヴィディヤー)がすべての根本にあることが示されています。無明とは、知識がないという単純な意味ではなく、物事や自分自身をありのままに見られていない状態を指します。

パタンジャリは、この無智が他の苦悩である自我意識、執着、嫌悪、そして生への恐れを生み出す土台になっていると説きます。無明は、ときに眠っているように静かであったり、弱く表れたり、はっきりと強く現れたりと、その現れ方はさまざまです。しかし、形は違っても、苦悩の源であることに変わりはありません。

物事を正しく理解できていないとき、私たちは自分を身体や感情、考えと同一視しやすくなります。その結果、「守りたい」「失いたくない」「避けたい」といった反応が自然に生まれ、心は揺れ動きやすくなっていきます。無明がある限り、心は外の出来事に引きずられ、安定を保つことが難しくなるのです。

第2章4節は、苦悩を手放すためには、表面的な感情や行動だけに目を向けるのではなく、その奥にある「見誤り」に気づくことが必要だと教えています。ヨーガの実践とは、この無明を少しずつ照らし、物事をより明晰に見ていくための道であり、その気づきこそが、苦悩から自由になるための出発点であると示されている節だといえるでしょう。

現代視点での解釈

ヨーガ・スートラ第2章4節では、私たちの苦悩の根本にあるものとして無智が示されています。無明とは、知識が足りないということではなく、物事や自分自身を正しく見られていない状態のことです。この無明があるかぎり、他の苦悩は形を変えながら何度も現れてくると説かれています。

現代の生活に置き換えてみると、私たちはよく「自分はこういう人間だ」「これは自分の価値に関わる」と、無意識のうちに決めつけて物事を見ています。その視点があると、評価に一喜一憂したり、人の言葉に過剰に反応したりしやすくなります。本当は一つの出来事に過ぎないものを、「自分そのもの」と重ねて受け取ってしまうのです。

また、感情や思考が湧き上がったとき、それをそのまま「私」と信じ込んでしまうこともあります。怒りが出れば「私は怒っている人間だ」、不安が出れば「私は弱い」と感じてしまう。しかし、それらは一時的に現れては消えていく心の動きであり、本質的な自分そのものではありません。この見誤りが続くことで、心は休まる場所を失っていきます。

第2章4節が伝えているのは、苦しみをなくすために感情や思考を消そうとするのではなく、「それらをどう見ているか」に目を向けることの大切さです。無明に気づき、物事との距離感が少し変わるだけでも、心の反応は和らいでいきます。ヨーガは、この見誤りを一つずつほどいていくことで、苦悩から自由になる道を示しているのだと、この節は教えてくれているように感じます。

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