「イーシュヴァラの内には、最高の全知なる能力を生じさせる種子が具わっている」
と説かれています。
つまりイーシュヴァラとは、あとから学んで知識を増やしていく存在ではなく、はじめからすべての智慧を内包している存在だということです。
自然の摂理そのものとして、何かと比べられるものではない、智慧の根源である全知の存在だと説明されています。
この節では、このイーシュヴァラの性質がさらに明確になります。
私たち人間の知識は、経験し、考え、学び、時間をかけて積み重なっていくものです。
一方でイーシュヴァラの智慧は、過去・現在・未来といった時間の制限を受けず、最初から完全な形で在る智慧だとされています。
ここでいう「全知」とは、たくさんの情報を知っているという意味ではありません。
物事の表面ではなく、本質をそのまま見通す力、迷いや誤解を含まない澄んだ理解のことを指しています。
ヨーガでは、この智慧は本来、私たちの内側にも備わっていると考えます。
ただ、日常の思考や感情、先入観や不安によって、その智慧が覆われてしまっている。
瞑想やヨーガの実践は、新しい答えを外に探しに行くためのものではなく、心を静めることで、すでに内にある理解に気づいていくための道なのだと、この節は教えています。
深い瞑想の中で、考え抜いたわけでもないのに「そういうことか」と腑に落ちる瞬間が訪れることがあります。
それは、イーシュヴァラとして象徴されるこの智慧の源に、少し近づいた状態だと捉えられています。
たとえば私たちは、スマートフォンで分からないことがあると、すぐ検索をします。
でも、長く同じ仕事や分野に関わっている人が、瞬時に「これはこうした方がいい」と判断できることがありますよね。
それは情報を集めて考えているのではなく、経験を超えた“本質的な理解”がすでに内側に育っているからです。
この節で語られている智慧とは、まさにそのような
「考えなくても分かってしまう理解」
「静かに見れば自然と分かる感覚」
に近いものです。
ヨーガが目指すのは、知識を増やし続けることではなく、心を静め、本来備わっている智慧に気づいていくこと。そのことを、この節では示しています。
シンプルなことなのかもしれないけれど、どんどんヨーガスートラを読み解くことが難しく感じてきている今日この頃です・・・笑
知識をどれだけ集めても、考えをどれだけ巡らせてもたどり着けないものがあって、
心が静まったときにだけ自然と現れる“本質を見抜く力”がある、ということなのかな。
いや〜、昔の人ってすごいね。
とりあえず、難しいけど1節1節読んで、解説して、また見返していきます。
