このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章41節
『心素の働きをほぼ止滅させた行者の場合は、彩色された平面上に乗せたられた透明な宝石がその色に染まるように観るものと観ることと観られるものとの融合が生ずる』
解説
ヨーガ・スートラ第1章41節では、
よく調えられた心の状態を「澄んだ水晶」にたとえて説明しています。
心の働き(考えや感情の動き)が静まり、乱れが落ち着いてくると、
その心は、まるで透明な水晶のように、対象をそのまま映し出すようになる、とパタンジャリはいいます。
ここで水晶のたとえが示しているのは、
・「見ているもの(対象)」
・「見ている自分(主体)」
・「見るというはたらき(知覚・認識)」
この三つが、余計な色づけや歪みなしに、そのままはっきりと現れている状態です。
評価や好き嫌い、過去の記憶、思い込みなどが入り込むと、
心は物事をありのままではなく、自分のフィルター越しに見てしまいます。
しかし、水晶のように澄んだ心は、自分の感情や先入観でかき乱されることなく、
ただ静かに、「今ここ」にあるものを映し出します。
ヨーガ・スートラでは、このように
心が対象にやわらかく溶け合いながらも、透明さを保っている状態を
「サマーパッティ」と呼びます。
第41節は、心を押さえつけたり無理に止めたりするのではなく、
丁寧な実践によって少しずつ澄んでいった先に、
このようなクリアで静かな認識の状態が現れてくるのだ、
ということを教えてくれている節だと感じます。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章41節は、心がよく調ってくるとどんな状態になるのかを、水晶のたとえを使って説明している節です。現代風に言うと、心が澄んでくると「物ごとや人、自分自身を、そのままの姿で見られるようになる」ということだと思います。
たとえば、一日中バタバタ動いていると、頭の中が不安やイライラ、過去の記憶や「こうあるべき」という思い込みでいっぱいになっていきます。その状態は、レンズが汚れたメガネをかけて世界を見ているようなもの。本当はきれいな景色なのに、くもって見えたり、歪んで見えたりしてしまいます。けれども、呼吸や瞑想、気づきの練習を重ねていくうちに、だんだんとメガネを拭き取るように心が静まり、透明さが戻ってきます。すると、相手の言葉や出来事、自分の感情も「あるがまま」に近い形で見えてくるようになります。
また、心を湖にたとえてもイメージしやすいかもしれません。風が強くて波立っている水面は、空や雲をきれいに映すことができませんが、水面が静まると、まるで鏡のように景色をそのまま映します。心も同じで、波立っているときは物ごとをすぐに誤解したり、感情にのみこまれたりしやすくなりますが、静けさが育つと、「事実」と「自分の反応」を少し距離を置いて見られるようになっていきます。
41節が教えてくれているのは、「何も感じなくなること」ではなく、感じることはそのままに、そこに振り回されずに見ていられる土台を育てていく、というヨーガの心のあり方です。心が水晶のように澄んでくると、世界も自分自身も、少し違って見え始めるのだと思います。
