このブログでは、ヨーガ哲学の古典『ヨーガ・スートラ』を、一節ずつ丁寧に読み解きながら解説しています。
原典の考え方を大切にしつつ、現代の心のあり方や日常生活と照らし合わせ、その意味を考察しています。
ヨーガをポーズだけでなく、心の仕組みや生き方の智慧として理解することを目的に綴っています。
今回の記事も、その流れの中の一節についての考察です。
ヨーガ・スートラ第1章42節
『客体についての名称と客体と智慧とが分別の状態にあり、混ざり合っているのが有尋三昧である』
解説
ヨーガ・スートラ第1章42節では、
心が対象に深く寄りそっているものの、まだ「言葉や概念」がかすかに残っている瞑想の段階について説明されています。
ここでパタンジャリが語っているのは、ヴィタルカ・サマーパッティと呼ばれる、形のある比較的“粗いレベルの対象”に向けられた集中状態です。
この段階の心の中では、
対象を表す「言葉」 その対象が持つ「意味」やイメージ それを理解している「自分の認識」
この三つが、静かではありつつも、まだ一緒に働いています。
たとえば、あるものを見つめて集中しているとき、その「名前」や「性質」、これまでの経験に基づいたイメージが、うっすらと背景に残っているような状態です。
つまり、第42節で示されているのは、
対象にしっかりと集中してはいるものの、
まだ完全には言葉や概念の層を超えていない瞑想のプロセスだと言えます。
それでも、日常の散漫な心の状態と比べると、心はかなり静まり、対象と心が近づいている段階です。
この節は、「いきなり何もかもを超えたサマーディに入る」のではなく、
まずは言葉や理解を伴った集中の段階から始まり、
そこから少しずつ、より静かで精妙なレベルへと進んでいくのだ、という流れを教えてくれているように感じます。
現代視点での解釈
ヨーガ・スートラ第1章42節は、心がだいぶ静まってきて、対象にしっかり集中しているものの、まだ「言葉」や「イメージ」「意味づけ」が少し残っている段階の瞑想について説いています。完全な無心ではなく、でも日常のバラバラな思考とも違う、ちょうどその中間のような心の状態です。
たとえば、コーヒーをゆっくり味わっているとき。香りや温度、口に広がる味に意識を向けていると、とても落ち着いた時間になりますよね。でも心のどこかでは、「このお店のコーヒー好きだな」「今日は少し濃いめかも」といった言葉や評価が、うっすらと一緒に浮かんでいます。しっかり“今ここの体験”に集中しているけれど、まだラベルづけや意味づけが完全には消えていない状態です。
子どもの寝顔をじっと見つめているときも同じです。ただただ顔を見ているだけで心が静まり、穏やかな気持ちになりますが、「かわいいな」「今日もよく頑張ってたな」といった思いや記憶が、やさしく背景に流れていたりします。このように、心は落ち着いていて集中しているけれど、言葉やイメージが少し寄り添っている状態が、第42節で語られている段階だとイメージすると分かりやすいかもしれません。
大事なのは、「まだ考えがあるからダメ」とジャッジするのではなく、この段階も立派な“瞑想のプロセスの一部”だということです。まずは、言葉や意味づけを伴う静かな集中の時間が育っていき、その先に、さらに深い静けさや、対象だけが残っていくような段階が開かれていく。42節は、私たちがいきなり完璧な無心を目指すのではなく、こうした途中のプロセスも大切にしながら、少しずつ心の静けさを深めていけばいいのだと教えてくれているように感じます。
